変化が起きるときには、不思議と一気に起きる。それはまるで何か初めから決まっていたかのように。
この半月ほどの間に、ずいぶんとめまぐるしくいろいろなことが起こり、私の中のいろいろなことが劇的に変わりました。まるでドミノ倒しのように、まるでこの半年ほどの時が止まっていた分を一気に取り戻すかのように。自分の価値観が揺さぶられることがさまざまに起きました。
たぶん、一番の変化は昨日の夜から今朝方にかけて。
素晴らしいアートを見たことによって深く自分自身と向き合い、自分の人にしてしまった罪や自分の受けるべき罰、そしてこれから自分自身がどうあるべきかということにようやく結論が出たのです。
私はこれまで、自分の熱や力を活かしきれていない、どこか歯車がうまくかみ合わず生きづらいと思うことがよくありました。そして、この歯車さえ噛み合えばうまくいきそうなのに、と。
さまざまなことが起こり、その間に多くのものを失いました。たぶん、信頼がその最たるものでしょう。
私は善人面をしているけれど善人ではなく、むしろ精神的暴力性の高い人間だったのです。完全なる無自覚なモラルハラスメントな人間で、それを周囲の人たちはまざまざと感じたことでしょう。
私は私の中にある沸き起こる力や怒りのようなものを、他者に介入することによって発散するのではなく、自分が創作や表現活動をするための動力として使っていこうと決めました。
そう決めてみると、今までなぜフリーペーパーを発行したかったのか、なぜ文章を書いてきたのかというようなことが、自分の中でしっくりときたのです。私にはそれしかなかったからなのですが、けれどそこに新たな意味が生まれ始めたのです。
そして、良くも悪くもでしょうが、人のことがどうでも良くなっていく気がします。
人の目が、人の評価が、どうしようもなく気になってそのことにがんじがらめになり、そうして人を傷つけ自分も傷ついてきたのですが、もうそんなことに囚われる必要はないのだと、はっきりと思っています。
この半年そして特ににこの半月ほど、社交性を求められることが多くあり、それが苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。知り合いから誰かに自分の情報がもたらされ共有されていることにとても苛立っていました。人と人との関係性に頼った情報網が、心底嫌でした。
けれどそんなことも、もうどうだっていいのです。
誰かの中では私は悪人であり、誰かの中では私は善人である。そんなものなのでしょう。
人や人の噂、人の間で共有される情報に、私が踊らされる必要はないのです。
私が動かせるのは私自身であり、自分に恥じぬ表現活動をする。本質的に生きる。
ただそれだけです。
人生ではじめて、そしてようやく、自分にしっくりきた朝。
これからはどれだけでも自由に、のびやかに生きていけそうです。
0コメント