近頃、この半年ほどの出不精が嘘みたいに動き回っています。自分でもちょっとおかしいんじゃない?ってくらい。5月半ばから、テヒマニ4号目の制作が本格化して必要があって街をうろつき出した間に。
ただ面白いのは、これまでのようにどこか衝動に突き動かされるというか、みょうな焦燥感みたいなものが自分の中から消えて、自分自身がのびやかに、肩の力が抜けてきた感じがあります。ただ動く時はよく動き、動かない時は徹底的に動かない、という基本的なスタンスはさほど変わらないんじゃないかなぁとも思っています。私はわりと好不調の波が激しいので。
世間的には、体調にしろ精神的にしろ安定していないというのは、あまり口にしてはいけない空気があります。以前働いていた職場の同僚は、体調が悪い人のことや精神的な問題がある人のことを忌み嫌っていたし、ただそれだけのことで馬鹿にしていました。
でも私にしてみれば、好不調なんて人間誰しもあるはずなんだから、誰かが調子が悪い時は気兼ねなく休んで欲しいし、休んだってあまり気にしなくても済むような世界が理想だろうと思うのです。好不調や身体のことで馬鹿にするなんてとんでもないこと。
きついことをきつい、辛いことを辛い、大変なことを大変と口にしても平気でそれを変なふうに解釈しなかったら、むしろ大変な状況よりも嬉しいことや楽しいこと・面白いことの方が多く喋りたくなるんじゃないかな、と。
口にしてはいけない辛さが多くなればなるほど、弱さを抱えた人がどんどんと生きづらい社会になっていきます。自分自身も含めですが、弱さを抱えている人はそのこと自体に苦しんでいます。その弱さの表出が、なにかへの依存であれ、仕事や学校にいけないことであれ、どんな形であれ。
そういうことを認めないで、精神的・肉体的にタフな人だけが生き残っていける世界、そんなのつまんないし何より悲しい。
まー、でもタフな人たちは努力しているからこその強さであって、強くなれない人を認めることができない気持ちもわかるにはわかるんですが。でも本当の強さは、弱さを排除するところにはないんじゃないかな、とか。
ただ、私の考える理想的な世界はディストピア映画のユートピアかもしれません。私みたいに大半の時間をただひたすらぼんやりと過ごすような、AIに指示されるがままに動くしかできない人間ばかりになってしまう可能性だって皆無とは言えません。あるいは、タフな人が弱い人を認めないと思っていることこそが、私の偏った見方とも言えます。
結局のところ、強い人もいて弱い人もいる。お互いにそれを認めあって人の生き方に過剰には口出ししないってことが大事なんだと思います。
だから少なくとも、自分の周りの大事な10人ぐらいが辛い時に辛いと正直に話せて、お互いにカバーしあえるようになれば、と思うのです。
そのためには、結局のところ体力が一番大事です。
いろいろ動き回って体力が削られれば精神に影響し、動けなくなってしまうのは当然なので。焦らずのんびり体力増強をすることにしました。
弱くても生きていけるように、体を鍛えて心が弱る要素を少なくする。
矛盾してる感じがいかにも私っぽい結論でなかなか気に入ってます。ただし、飽きっぽい性格なので継続することが大問題。
これからどうなることやら。まずは朝夕のラジオ体操から始めよっかな〜。
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