ひさしぶりに文章や雑誌編集の師匠と電話で話をしました。父と同い歳の、雑誌記者上がりの先生で、わりとダメダメなどうしようもない人です。
大学時代、私は徹底的に不真面目で、当時しっかりと授業を受けていたら、今現在こんなにも足掻く必要はなかったのかもしれないと頭をよぎることもあるほどひどい学生でしたが、その先生と、すでに亡くなった恩師(この人もとくに授業で何か有意義なことをならったわけではありません)の二人に出会ったことが、私の大学時代の成果のすべてだったのではないかと思います。
思えば、私はずっと先生方に恵まれてきました。どの学生時代をとっても模範的ではないし、性格もひねくれていたにも関わらず、本当に優しくしてもらってきました。
とくに大学時代の二人には感謝しても感謝しきることはありません。師匠は文章や雑誌編集になにか迷いがある時に電話をするとよっぽど忙しい時ではないかぎり長々と相談にのってくれます。
すでに亡くなった恩師は昔の文士のような細身の人で、とても洒落者でした。面識がなかったころ夏場に大学構内をゆったりとした白い麻のスーツに明るい色の皮の鞄、ストローハットがとても格好良くて、当時なんと洒落た人がいるのだろうかと思った記憶があります。晩年のころは、着流し姿ということが多かったようで、大島紬の着物の上から、昔ながらの外套を着て麻雀に出かけるのを見たことがありますが、まるで昭和初期の雑誌のグラビアから抜け出てきたのかと驚くほどの渋さでした。
私の大学卒業後、アルコールの過剰摂取から記憶障害を患い、その後体調を崩して亡くなったのですが、最後まで私のことはしっかりと覚えていてくれました。大学の授業では、1年間受け持った学生の名前を覚えていないような先生だったにも関わらず。
恩師と最後に会ったのは、大学を卒業後、福岡に引っ越してからのことです。恩師は記憶の混濁が始まり、大学を辞めたことも判別もつかないような時でした。
あまりのことにびっくりした私は栃木のご自宅にお邪魔して、奥さまの美味しい料理に舌鼓をうちさんざっぱら話をして、厚かましくも泊めてもらったのです。翌朝起きていくと、恩師は私が来ていたこと、そしてたぶん昨夜に楽しく会食したことなどすっかりと忘れていて、口には出さなかったけれど私がいることにびっくりとして、小さな優しい目をまん丸くしていました。
美味しい朝食をいただいた後、先生がバス停まで送ってくれました。
淡い青の着流し姿に弱々しい下駄の音が響いていました。はじめて恩師とゆっくり歩いた時間だったような気がします。
ふだん朴訥に優しくしゃべる恩師も、ふだんおしゃべりな私も、とくにしゃべることもなく、けれどもバス停までが、バスが来るまでの時間がもっと続けばいいのにと、たぶん互いに思っていたような気がします。これが最後の時間だと、ひしひしと感じていたのだと思います。
うねうねとした坂道をバスが降りてきた時に、恩師が静かに言いました。
「ずっと書き続けるんだぞ」
私はたぶん「はい」と答えたように思います。そしてバスに乗り込み、閉まる扉越しに見下ろしたのが、恩師の最後の姿でした。
その言葉を、恩師の最後の姿を思い出すたびに、泣けてきます。大学時代も大学を卒業してからも、決して真面目に文章を書いていたわけではなかったのに、まさかそんなことを言われるだなんて思ってもいませんでした。私よりも一生懸命文章を書いている人はいたはずだったのに。
それでも、そんな言葉をかけてもらえるような何かが私の中にあるのかもしれないと、私の救いとなり、今でも強い強い励みになっている言葉です。本を捨て、本を読むことすらからも遠ざかっていた私が、まさか再び文章を書くようになるとは思ってもいなかった4年前の話です。
この2年でふたたび本の素晴らしさに目覚めさせてもらうことができ、今でも相談に乗ってくれる師匠がいて、恩師の言葉がある。なんて恵まれているのだろうかと思います。
本当に、本当に、惜しむらくは、テヒマニの発行を恩師にお知らせすることができなかったことです。もちろん、テヒマニ発行の3年ほど前に恩師は亡くなっているわけですが。
もしもまだご存命だったら、なんて言ってくれたかなあ?
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