雪がうっすらと積もった朝、知人の訃報を耳にした。
私はその人ののりが大嫌いだった。仲間内ののりというものを大事にしていて、少し変わった人、つまりコミュニケーションにやや難のある人を馬鹿にしていて、その空気を同じクラスの中に伝播しようとしていた。彼らがバカにしていた中に私は確実に入っていただろう。
人はいくつになっても群れて嘲るという事実は、いつも身にこたえるし慣れることができない。人は人で、個性的なところを互いに認め合うか干渉しないで生きていけると私は信じている。けれど、私のふだんいる場所から一歩踏み出すと、世界はそんなに優しい場所ではないとあらためて教えられる。教えてくれるのはいつも彼のような存在だった。
だからといって、彼自身を嫌いだったわけではない(好きでもなかったけれど)。彼にはある種の繊細さがあった。それは彼の認められたい相手、自分が良しとした仲間の意図に沿った動きをするという繊細さだった。
頭の回転も記憶力もとても良い人だったけれど、それらを自分のもてる能力につぎこめば掴めるものがありそうだったにも関わらず、彼は仲間とつるむことに最大の力を注いでいるように見えた。身体がきつかったり財布が心許ないのに集まりに参加する。人の和を乱さず、仲間内ののりを重視するために変わった行動をしない。
みんなと同じことをして、いっときの安心感を得ることに一体どんな意味があったのだろう?
周囲の友人に合わせて遊んで翌朝寝不足のきつそうな顔をしていたのと同じように、近頃の彼はきっと無理をしていたことだろう。
亡くなってしまってから、ほとんど縁のない人に対して投げかける言葉ではないのは重々承知だ。私はひどい人間だ。けれど、問わずにはいられない。なんでそんな無理をしなくてはならなかったのだろう、と。
彼が仲間内ののりの外で私とした最後の会話を思い出す。私が起業するつもりがないという話を心底意外そうに聞いていた。いつもの陽気な気遣いをしているトーンではなく、低くすこし暗い喋り方で。彼は私のことが気に入らない類の人間だっただろうし、私は彼のことが好きではなかった。この先、お互いに交わることがないとわかりきっていたもの同士のどこか無遠慮な会話だったけれど、嘘がなくて私はそれまでの彼との会話で一番印象に残っている。私はその会話を反芻する。
本当に、無理なんてして良いことは一つもない。
私たちはもっと自分勝手に生きるべきだ。
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