あなたは良い人ですか?と聞かれたら、答えは決まっています。
「いいえ、絶対にいい人ではありません」と。
そもそもいい人かどうかなんて聞くものでもないし、聞いたところで本音なんて出ないんだろうと思うわけですが、それ自体が私のひねくれた考え方かもしれません。たぶん真正面から同じ質問をされた時に、自信を持って自分自身をいい人と断言できる人はどこかにいて、そしてその人は本当にいい人か人を利用することに長けた悪人でしょう。
私が心の底から「この人はいい人だなあ」と思う人が一人いるのですが、その人は人のことを決して悪く言わず、誰かの問題な行動があったとしても批判的に見るのではなく何かしら事情があるものとして見ています。そんな人の隣にいると、いい人というのはいるもんだなあと思います。ですが、いい人がその心の清らかさに比例するように恵まれているかと言えば決してそんなことなくて、もっともっと評価されたり認められていいのになあと日々悶々としています。完全に余計なお世話なんですけど。
私が自分自身のことをいい人だとは思わない理由はいくつかあります。このプロジェクトをこの人が続けていったらすごいことになりそうだなとか、きっとこの人は大事な人になっていくだろうな、とか直感のようなものがあります。とても純粋な気持ちで思っていますし、そういう勘はあんまり外れないのです。そしてすごいと思ったことは正直に伝えて、長く続けてその人の道の中で成果を出して欲しいと願っています。
純粋にそう思う一方で、同じ人物に対して引いた視点から、その人の生き方やスタンスについて考えます。そして根本的に違う生き方をしている人には、自分の中で批判的に見ていることがあります。もちろんそれは口にすることはほぼありません(ここで絶対に口にしないと言い切れないところがまた私がいい人ではないことを示しています)。
誰かの仕事やプロジェクトをすごいことだと純粋に思う一方で、心の中でその人の生き方を批判的に見ているということ、その二つの視点が違和感なく自分の中で同居しているのです。以前は生き方に決定的に相容れないところがあると、その人の成果すらも認めることができていなかったのだから少しはマシになってはいると思いたいところです。
けれどそうやって一人の人を、仕事・成果・生き方・スタンスなどのいくつかの面で捉えようとしていることに、時にゾッとするというかどうしようもない嫌気がさすことがあります。寛容だったり鷹揚な人だったら、その人をまるっと捉えて、あれやこれやと自分のモノサシで測ろうとなんてしないでしょう、それはなんの意味もない行為なのですから。ということはつまり、私は人のことを自分のモノサシで測ろうとする器の小さくせせこましい人間であるということです。
寛容な人に憧れる一方で、その正反対の自分の人の好みをストレートに表現する人がとても羨ましいです。好きか嫌いかをはっきりと態度に表すことを厭わないのですから、誰にどう思われても構わないという潔さがあります。ある意味では偏屈かもしれませんが自分自身に嘘をついていないという、なにものにも代えがたい正直さのあらわれであり、その態度をとるのにどれだけの抵抗があるかを考えると、その力強さに強烈に憧れます。
将来的に、寛容な人と偏屈な人のどちらになるのを選ぶのかといったら、たぶん偏屈な人を選ぶような気がします。私は自分のなかのモノサシを捨てることはできなくて、人のことを生き方とかスタンスを大事な要素として捉えてしまうことも辞められないでしょう。たぶん「みんな大好き」とか「この世の中はみんないい人」みたいなポジティブな思考はできそうにもないので、せめて嘘偽りなく好き嫌いを表に出すことができるほどに振り切れた人間になりたいものです。
それはそれは遠い道のりのような気がします。そもそも好きか嫌いかだけに落とし込むことができたら、こんなにつらつらといい人について考えないのですから。
こういう思考すべてをかなぐり捨てて、偏屈な人に、好きか嫌いかだけに生きる人になりたい!切なる願いです。
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