「詩人的世界のとらえ方」、心をやわらかくする。

 海辺の町での休暇から帰ってきました。

 この7ヶ月ちかく、なんの職につくこともなく、ただひたすらフリーペーパーを作ったり、本を読んだり、散歩をしていたりと、社会からかなり隔絶した生活をしていました。

 昨年12月末からのこの間を振り返ってみると、「詩人的世界のとらえ方」を実践する期間だったのだと思います。

 「詩人的世界のとらえ方」とは具体的にいうと、自然や町のなかに自らの身を置き、花や生き物たちや季節・気候の変化、あるいは日々の生活の小さな変化を繊細にとらえ、そしてそのことを受け流さず心を留める、ということだったように思います。

 きっかけは映画「パターソン」と長田弘著「なつかしい時間」、育った茨城に行ったことでしたが、不思議なことにそんなことを考え始めたら、それら以外でも「詩人的世界のとらえ方」がいかに大事なのかについて触れられた作品に出くわすことの多い日々でもありました。それが意識的なのか無意識的だったのかはちょっとわかりませんが。

 そうして季節や物事のうつろいに細やかになってみた結果、心を覆っていた硬い殻がとても柔らかくなったような感じ。そして心自体がとてもやわらかくなったような、そんな感覚です。

「木々が美しい」「ご飯が美味しい」という小さなことに以前にも増して喜びを見いだせるようになったような、映画や実生活でみる人の行動に感情移入しやすくなったような、そんな気がします。 それは嬉しいこと悲しいこと両方に、感情の振れ幅大きくなったことでもありました。

 感情の振れ幅が大きくなったことは、嬉しい方向に関しては良いのですが、悲しいことについても囚われる時間が多くなり、それについてはすこし弊害もあるような気がしています。あまりにも感じ入りやすいと、起こったことが些細なことであってもそのことについて考えが囚われ悲しみの感情が長引いてしまうことが多くなったのです。

 これから徐々に社会との関わりを持とうとすると、「詩人的世界のとらえ方」を実践していると耐えられないのではないかという不安がやや沸き起こってくるのです。もっと強い気持ち、もっと強い殻を心に纏わなくては、すぐに気持ちが折れてしまうのではないだろうか、という。

 けれど、もしかしたらそんなこと不安に思わなくてもいいのかもしれません。

 前回とりあげた茨木のり子著「詩のこころを読む」のなかでとりあげられている河上肇という経済学者であり詩人という人がいます。経済学者という立場から戦前・戦中に行った共産主義運動で投獄されたという彼の詩と、それを紹介する茨木さんの紹介が素晴らしく、また考えさせられるものです。

 投獄された後に詩作を始めたそうなのですが、獄中で書いていたにも関わらず、人間らしさ・人間としての心のやわらかさを失うことなくいられる、というのはとてもすごいことのような気が、詩と紹介文とで思われてくるのです。

 心をやわらかく保ちながら、力強く生きていく。

 そんなふうに、これからできたら良いと思うのです。

 

 

 

テヒマニ

暮らしにまつわる小さな雑誌「テヒマニ」ブログ。福岡県うきは市を中心に、個人的に配布している小さなフリーペーパーの、配布情報や日々の雑感にまつわるブログです。

0コメント

  • 1000 / 1000