居間から窓の外を眺めると、ついこの間まで白い可憐な花を咲かせていたと思っていた梅が、今ではあざやかな若葉が美しい木になっていることに、季節のうつろいのあまりの早さに息をのむ思いです。
12月いっぱいで仕事を辞めて、ひたすら休んだり遊んだりしていたこの4ヶ月弱に終止符をうち、いよいよ次にすることへの準備段階へと進もうとしている今、すこしだけ歩みを止めて自分の立ち位置のようなものを考えてみようと、昨日からしています。
自分がこれからしてみたい具体的なことに始まり、人生の目標として達成したいことなどに思いをめぐらした結果、考えごとの迷路にはまりこんでしまいました。
私は修学旅行の時にふと気になったものをぼんやり眺めていたら、あたりに同級生はいなくなり一人ぽつんと取り残されていたということが何度かあったのですが、そんな人生を歩んでいます。
日々は楽しいのですが、30代も半ばになろうというのに確かな自分というものはなく、手にした技術もなく、心はやわで体力もない。今まではそんな社会に適合しにくい自分が受け入れにくかったのですが、それらを受けいれた上で生きる糧をえていけば良いのではないか、などとぼやぼやと考えていたわけです。
そんなことを考えていたら、心がざわつき寝入ったのは明け方のことで、目が覚めたのは午前9時を過ぎたころ。なんという勝手気ままな無職生活なんでしょう。自分でもあきれるばかりですが、恵まれていることもまた事実です。
遅く起きた朝に、居間から見た若葉の梅の木陰があまりにも気持ちよさそうだったので、まだ心はざわついていましたが、コーヒーとお茶菓子を準備し、先日なんの気なしに書店で手にした石井桃子著「みがけば光る」というエッセイ集を読むことにしました。
"小さい時、私はおとなというものは、心のなかに、どっしりとした―たとえば、重石のような―ささえをもっていて、どんな時にも、おちついていられるものだと思っていました。(中略)ところが、自分がおとなになってみると、そんなどっしりとした心のささえなどというものは、なかなか得られないのですね。"
こんな、まさに私が考えていたようなことで始まるのが「友だち」という一篇です。
熊のプーさんやうさこちゃん(ミッフィー)の訳者であり児童文学作家である著者石井桃子氏が、47歳の時にロックフェラー財団の研究員としてアメリカに留学したさいに経験したエピソードです。彼女はさして親しくはない出版社の社長さんに、家族だけの素朴な感謝祭に招かれ、とても充実した時間をすごし、彼と別れた後に思うのです。
"人間は、ひとりひとりが、世界の中心なんだ、そして、そこにしっかり立って、まわりの人と手をくめばいいんだ、もたれかかってはいけない、あまえれば、くるしくなる……"
「あまえれば、くるしくなる……」という言葉。
そこを繰り返して読んでみるのですが、私には彼女の意図がわかるようなわからないような、とても奇妙な心持ちになります。やわらかくて透明なぐにゃぐにゃとしたわけのわからぬ大きな球体が、口から入りこみ、私の胸のあたりでうごめいているような、そんなイメージにおそわれます。
自分で書いていても意味がわからないので可笑しいのですが、このイメージの正体やこの言葉のもつ重みや意味が、近いうちにはっきりとわかるのではないかと、そう思っています。
この「友だち」という一篇以外にも、はっとする言葉がそこかしこにあります。そのなかでもお気に入りは「人間くささ」、表題作の「みがけば光る」、「ある連想」、「日本人のはにかみ」です。
どれも平易で飾りけなく率直に書かれたその文章は、春の雨のように、心になんの抵抗もなくすっと染みこみ、芽吹きをうながしてくれるようなそんな素晴らしい文章です。
時計の針は午前3時。今日もう一日くらい、自分の根源や立ち位置ということを考えてみようかと思います。ではでは。
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