ゆっくりご飯を食べ、日がしっかりと暮れた山の端に散歩に行きしばらくぼんやりと街の灯を眺め、帰って来てチーズケーキを焼き、チーズケーキの粗熱がとれるのを待つ間に、ぱらぱらと本をめくり、そして今、ぽちぽちとこれを書いています。
今日は、本当であればテヒマニの編集作業をしなくてはならない日なのだけれど、昨夜も遅かったことだし、今日ぐらいはゆっくりしようじゃないかと、思ったのです。
そう思って、夜の入り口にお散歩に出かけて街の灯を見ていたら、なんだか妙なスイッチが入ってしまったようで、ここ数日の、あるいはここ2ヶ月ぐらいのいろいろな出来事が、ぐちゃぐちゃと頭の中をかけめぐります。
いつもならお菓子作りで落ち着くはずの感情も落ち着かず、こんなざわざわとした気分になった時に読みたい吉野弘の詩集が不思議と見当たらず、先日もらった「旅する木」という以前から大好きだった星野道夫の本をぱらぱらとめくってみれば、彼のソリッドで生と向き合わざるえない文章に、泣きたい気分がより一層増してきます。
ガラスのコップになみなみと注がれた水が、表面張力でふるふると揺れているような状態、水一滴でも落ちれば水がこぼれてしまうかのごとく、自分のなかのさまざまな感情が私の中でぐるぐると渦巻いています。
その中心にあるのは、馴染みのお店の店員さんがそのお店を辞めたこと。いつもは他愛もない話しかしないのだけれど、文章を書いている時に煮詰まっていることを話すと控えめなのにとてもはっとするような鋭い意見を返してくれることがあって、それってすごいことなのにそのことにまったく無自覚で、その彼女が次に行った時にはいないというのが、私のなかではなんだかまだよく飲みこめなくて、一人になると泣けてきます。
自分が仕事を辞める時ですら涙なんてさらさら出たこともなかったのに、なぜもこう泣けるのか、これが一体どこから発している感情なのか、私にはよくわかりません。
彼女がカウンターの中でふわふわと笑っている姿を、ずっと見ていたかったと望んでいます。どこかの時点に戻っていって、どうにかして彼女がずっといるようにできやしないのでしょうか。すべての物事が一番良いような、一番収まりのいい具合に、一番心地よくって、一番楽しい形に、すっぽりとおさまりやしないのでしょうか。
たぶん、そんなおとぎ話のような美しいだけの世界は存在しないし、どうしたって時は移りゆくし、誰かを1つの場所に縛りつけたり、誰かの心を自分の思うようにとどめおくことなどしてはいけないし、私には出来ないのに、とりとめもなくそんなことを考えています。
彼女にひきかえ、自分のくだらなさにもなんだか泣けてきます。感情の波がはげしくて機嫌屋で、自分本位で、人の感情や人の状況に無頓着で、自分の興味のあることにしか行動ができない。なんてひどい人間なのだろうと、ほとほと自分に嫌気がさしてきて、自分のすべてを投げ出して逃げたくなりそうです。
けれど、彼女があの店からいなくなってしまったことをきっかけに、私の自分の醜さと向き合うべき時が来たのかもしれないとも思います。
彼女のいないあのお店のカウンターを見たくないほどには、ただひたすら寂しいのです。
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