公園のベンチに腰かけて、すぐ隣に座って顔をのぞきこんで、このまえ観た映画のたわいもない話をして、今度一緒に映画を観に行こうと約束をして、その日の夜に晩御飯を食べにいく約束をして、じゃあまたあとでと手を振ってわかれる。ただそれだけなのに、幸せだなぁ。
そんなことをしみじみと思っていたら、夏の午睡から目が覚めました。
すでにおぼろげに像を結ばなくなっている誰かとのその会話とその時間が、あまりにも美しく、そして儚くて寂しくて、クーラーの効いた部屋の羽毛ぶとんにくるまりながら、しばらくぼんやりとしていました。
昔なにかで見聞きした話によれば、夢を見ていないと思っている人でも実際は夢を見ているらしくて、その記憶があるかないかだけなのだそうです。ここ最近の私は夢を見ていた記憶があまりないので、こんなにもはっきりと覚えていることはめずらしいことです。
それが、手のひらのうえに舞い降りたふわふわとした淡雪のような夢だったのですから、いくらもの哀しくなったとはいえ、とても幸せな時間でした。
昔から午睡が好きでした。
本を読みながらどうしても抗えなくなってうとうとしてしまうのも、春の芽吹きそうな草木に音もなく降る優しい雨をぼんやりと見ながら眠り雨上がりに目が覚めるのも、夏の暑い盛りにしゅわしゅわとうるさすぎる蝉の声を聞きながら眠り汗ばんで目が覚めるのも、秋の稲刈りの終わったあとの田んぼの匂いをかぎながら眠り寂しげな夕暮れに目が覚めるのも、冬の終わりかけに窓をあけほんのりと暖かさを感じる陽の光を感じながらお布団にくるまって眠り肌寒さで目が覚めるのも。
いつの時間もいつの季節も、午睡の、眠りに落ちるまでの瞬間と目が覚めるその瞬間が好きです。
「死ぬことは眠ること」とはシェークスピアのハムレットのなかの、「生きるか死ぬか、それが問題だ」ではじまる有名なセリフの一節ですが、逆もまたしかり。
眠ることは死ぬこと。そして、目が覚めることは生まれること。私たちは擬似的に生と死を繰り返しているのかもしれません。
大好きな午睡ではありますが、昨日のあまりにも素晴らしい体験があるので、しばらくはいいかな。なんていいつつ、本を読んでいたらすぐにうとうとしてしまいそう。
淡雪のような午睡、淡雪のような夢。
またいつか。
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